まえがき

この記事は「夢小説 Advent Calender 2023」の15日目だよ。

夢小説 Advent Calendar 2023 - Adventar

さて、今日は夢に至る病について書くよ。

死に至る病

ひとが一人の人間としての責任を放棄し、あらゆる選択の自由を手放して理想を追い求めることをしなくなることを「絶望」と。そして何もかもに対して絶望してしまうことを「死」と。セーレン・キェルケゴールは『死に至る病』の中で、絶望と死をそう定義した(※1)。

彼はキリスト教徒としての信仰心によってその絶望に抗い、それを一般化してそれこそが人間に与えられた唯一の方法だと述べた。いやいや、おい。「矛盾してるだろ。お前自身が自由選択の意志を手放してるじゃないか」と言ってやりたい。

私生活での彼は、敬虔すぎるというほどに神を畏れた父親を持ち、息子であるセーレン自身にもその業が襲いかかっているものとされて育てられ、そのためか、レギーネ・オルセンとの婚約破棄、そしてその後の奇妙にも倒錯的にも思える二人の情愛の交換が行われており、彼自身が述べているようにキェルケゴールの思想の根本にこれが横たわっている。

実際には何が彼らをそうさせたのかはわからない。だからこそ思うのだが、筆者はキェルケゴールの思想が嫌いだ。嫌いとは執着であり、執着は愛情である。だから一方で、筆者はキェルケゴールの思想を愛してしまってもいる。彼が夢を見ていると思ってしまっていて、なおかつ「絶望」に抗おうとしているからだろう。

理想は常に道の先にある

理想は決して手に入らないものだ。定義からしてそうなのだから、構造上手に入れることは不可能になっている。手に入った途端にそれは現実になり、その現実の延長線上に新しい理想が生まれている。理想を思い描けなくなったとき、人は「絶望」する。

このアドベントカレンダーのなかで何度か記事にしている通り、筆者は夢小説を「現実にするために書いている」。しかしそこに書かれる内容は現実ではない。少なくとも「自分が読んだ」「他人が読んで共有した」「現実と地続きであるように思える」これらの条件をまだ満たしていない状態の夢小説は、理想の形としてあらわれることになる。

ひとつの理想のあらわれだからこそ、著者はそこに理想の自分、理想の関係性を描かざるをえなくなる。「かっこつけすぎじゃないか」とか、反対に「自分すぎじゃないか」とかいう悩みが出てくるのはさもありなんである。

現実化されるべき理想でもあるので、「現実と地続きであるように思える(現実態を伴っている)」ように書くことが求められる。そのために自ずと現実についても知ることが求められる。これが自己理解、他者理解が重要と言われる理由だろう(他の人もアドベントカレンダー記事で書いてくれてるよね)。現実の自分を知り、相手を知り、そこから理想を描き出さなければ、現実化することはできない(仮にできたとしても、イヌカレー的なシュールさを伴いそうな気がする)。

夢に至る病

キリスト教的なそれに限らず、グノーシス主義的世界観でも、二元論的世界観でも、至高神とされる神は、自己の鏡像としての他者(その他の神々、悪神、あるいは人間)を作り出した。キリスト教的神は愛するために、グノーシス主義的神は自己像を知るために、二元論的世界観では争うために。

私たち夢厨も同じように、現実の延長上にある理想を描くために、自己の鏡像としての他者を必要とするところが出発点になっているように思える。

夢厨って、知っていますか?②|真夜中

人の記事を何回引用しとんねんという感じだけどまた引っ張ってきちゃう。